special day

 



 望美は知っていた。
 譲は、女子からの評判がとてもいい、ということを。
 それも、ただ「評判がいい」というだけではない。かなりの数の女の子が、譲に想いを寄せているという噂も。
 そして彼女達が、まだまだ寒いこの時期の熱くも甘い一日に、全身全霊をかけているだろうということも。

 女の子が好きな男の子にバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、日本だけのものという。
 以前、なんで女の子から、しかもチョコレートなんだろうね、とため息まじりに譲にこぼしたら、彼は苦笑しながらその由来を教えてくれた。もともと、男女の区別なく愛を誓う日だったのに、チョコレート会社が女性から好きな男性にチョコレートを贈る日だという宣伝をした、という話を聞いたことがありますね、と。
 望美は、自分の手を見下ろして、今日何度目かのため息をつく。正直なところ、そのチョコレート会社に恨み言のひとつも言いたい気分だ。
 望美は自分が作る料理のレベルは痛いほど自覚しているつもりだったし、譲の料理の腕前がどれだけすばらしいかということもよく知っていた。
 けれど、この数日間ほど、自分の破壊的ともいえるほどの腕前を呪ったことはない。
 彼の世界では戦神子などという勇ましい二つ名もいただいた望美だが、それでも多少の乙女心はもちあわせていたし、大好きな恋人に手作りチョコレートをプレゼントしたいと思うのはごく自然なことだ。
 なのに、どんなにがんばっても、自分が作れるのはうっかりすると食べられるかどうかもあやしいようなものばかり。こんなものを大好きな彼──しかも相手は大変な料理上手──にプレゼントだなんて、考えただけでも穴があったら入りたくなるような気分になる。
 そして、バレンタインデーは女の子から堂々と好きな人に告白できる日。譲に好意を持っている料理上手な女の子が、その想いのすべてをこめた手作りチョコレートを贈ってくるかもしれない。そんなことも、より望美の心を重くする。
 もちろん譲は、想いを通じ合わせてからは当然のこと、ほんの小さな頃から、望美以外の女の子からのプレゼントを受け取ったことはない。たとえ学校のロッカーにこっそり入れられていたとしても、相手をできるだけ傷つけないようにと、後から誰にもわからないように返すほどの律儀者だ。義理チョコですら受け取らないその姿勢は、将臣にいつもからかわれていたが、当の譲は、そのつもりもないのに受け取るほうが失礼だろ、と涼しい顔だ。だから、余計な心配をする必要はないのかもしれない。
 けれど、望美は思う。
 譲は女子からの評判がとてもよい。その中には、譲に本気の想いを抱いている子もいるだろう。その子の真剣な想いのこもったチョコレート以上のものを、自分は果たして譲に贈ることができるのだろうか、と。
 譲の気遣いはとても嬉しいし、彼のことはもちろん大好きで、この想いは誰にも負けないという自信がある。けれど、譲に想いを寄せている子達のプレゼントを無駄にさせてしまっても胸が痛まないほどに、譲に喜んでもらえるものを贈ることが、本当に自分にはできるのだろうか。
 望美はもう一度自分の火傷だらけの手を眺め、今が冬でよかった、とため息をつく。
 火傷が治るまで、譲の前ではずっと手袋をつけたままにしておこう。こんな手を見たら、彼はきっとひどく心配する。自分の不器用さはもうどうしようもないけれど、せめて心配だけはかけたくない。
 ──チョコの出来映えなんて、もう、考えたくもない。


   ***


 2月に入ってからは、3年生は週1回の登校日を除いては自由登校に切り替わっている。望美も受験直前の最後の追い込みのため、登校日以外に学校へ来ることは少なくなっていた。
 今が一番大切な時だから、と譲が気を遣ってくれるのはありがたいけれど、おかげでここのところ、デートどころか顔をあわせる日も極端に減っていた。でも、登校という口実があれば、登下校中くらいは2人きりの時間が持てる。14日は登校日ではないけれど、バレバレだろうがこの際背に腹は代えられない。
 ……と思っていた。ほんの数日前までは。
 母に呆れられつつキッチンで重ねた特訓も、成果は芳しくなかった。昨夜なんてほとんど徹夜でがんばったというのに、その「成果」は、すっかり日が傾いたこの時間になっても、いまだ望美の鞄に入ったままだ。
 だって、こんなものをもらっても、きっと喜んでもらえない。普段あんなにおいしいものを作るんだもの、きっと舌だって肥えているはず。それどころか「チョコレートだ」と主張したってわかってもらえるかどうかもあやしい「コレ」を渡されて、喜ぶほうが、変だ。
 けれど、いくら望美が逃避したところで、時間は容赦なく過ぎて行く。
 もうとっくに部活の終了時刻は過ぎている。早く待ち合わせ場所に行かなければ、また譲を待たせてしまう。そんなこと、わかってるのに。

 ──行かなきゃ。

 ようやく立ち上がろうと、望美が机に両手をかけた途端。

「……先輩?」

 まさに今、望美の心をいっぱいにしている人物の声が聞こえ、望美は文字通り飛び上がった。弾かれたように振り返ると、開け放たれたドアの向こうに、少し心配そうな表情をした譲が立っていた。

「すみません、あんまり遅いから心配で……どうしたんですか、灯りもつけないで」

 いつものように困ったような微笑みを浮かべた譲の言葉を聴いて、初めて気がついた。さっきまで明るいオレンジ色で満たされていた教室は、急速に夕闇に包まれ始めている。

「あ……ごめん」

 譲の質問には答えず立ち上がり、机の上の鞄を手にした途端、鞄の中の「それ」の存在を思い出し、また気が重くなる。
 そのほんの一瞬の変化に気づいたのか、譲はわずかに眉を顰めると、失礼しますと小さく呟いて教室へ入ってきた。3年生の教室とはいえ、望美の他には誰もいないのに、こんなところは本当に律儀だな、と、望美は頭の片隅でぼんやり思う。

「……何か、あったんですか」

 足早に近づいてきた譲は、長身を屈めるようにして望美の瞳をのぞき込んできた。眼鏡の奥の瞳は心配そうに揺れてはいたけれど、昔はこんな時にいつも浮かんでいた不安げな色は、もうどこにも見当たらない。
 小さな頃からずっとそばにいてくれて、こんなふうにいつも気にかけてくれていて、なのにどこか不安そうに視線を逸らしたりしていたのに、いつからこんなふうに、自信に満ちた瞳でまっすぐに見つめてくれるようになったんだろう。
 そう思った途端、望美の胸がきゅっと甘く疼く。

 ──反則だよ、譲くん。
 
 折しも今日はバレンタインデー。ますます募っていくこの想いを譲に伝えるには絶好の日のはずだ。なのに想いをこめて作ったはずのチョコレートは見るも無惨な出来映えで、いまだに渡す勇気も出ない。
 けれど、こんなにまっすぐ自分を見つめてくれる譲に、これ以上心配をかけるのは嫌だ。だからと言って、嘘や言い逃れを重ねるのは、もっと、嫌だ。

「……譲くん」
「はい」
「……あの……、あの、ね」

 言いかけてまた続く言葉を飲み込みそうになり、望美は思わず目を伏せた。
 何か、何か言わなくては。

「い、胃腸薬持ってる?」

 次の瞬間に訪れた、なんともいえない微妙な空気を、望美はきっと一生忘れないだろう。
 ありったけの勇気をかき集めて必死で絞り出した言葉が、よりにもよってこれだなんて。そりゃ胃腸薬なしに食べたら命の保証もできないようなシロモノかもしれないけど、いくらなんでも開口一番これはない。

「……」
「……」

 冷や汗が滲みだしてくるような沈黙に、望美は本気で逃げ出したくなるような気持ちを必死で堪え、急いで次の言葉を探す。
 と。

「先輩、おなかが痛いのなら早くそう言ってください」
「……えっ?」
「俺はあいにく持ちあわせてませんが、きっと保健室になら──」
「え、ち、違うよ! おなかは別に痛くないから!」

 急いで教室を飛び出していこうとする譲を望美はあわてて引き止める。
 そうだ、譲はこういう人だった。

「え、違うんですか?」

 心底不思議そうな顔をして、譲は望美を振り返る。
 その表情に、望美は今度こそ覚悟を決めた。これ以上逃げて遠回しに言ったところで、絶対譲には伝わらない。
 決心が鈍らないうちにと急いで鞄を開けると、今朝家を出る間際まで格闘していた小箱を取り出した。今渡さなければ、きっともう、渡す勇気なんて永遠に出ないにきまってる。

「ゆっ、譲くん、これ、受け取って!」

 ぎゅっと固く目をつぶったまま、望美は大声で叫ぶと両手で譲の鼻先にその小箱をつきだした。とてもじゃないが譲の顔を正視することなどできるはずもない。
 まったく、かわいげのカケラもない、最悪な渡し方だ。譲はいったいどんなふうに思っているだろうと、望美はまたしても頭を抱えたい気分になる。
 
「…………」

 再び訪れた沈黙に、望美は今度こそ本気で逃げ出そうと考えだす。
 譲はきっと呆れているに違いない。さんざん待たせたあげく、胃腸薬を持ってるかとか、訳の分からないことを言ってみたり……ああそれに、中身はもう諦めるしかないけど、せめて見栄えだけはって頑張って包んだのに、一日中鞄の奥に押し込んだままだったから包装紙も皺だらけだし、リボンも縒れて──

「…………よかった…………」

 心底ほっとしたような声に、望美はおそるおそる目をあけ、譲の顔をそっと見上げる。

 ──心臓が、とまるかと思った。

 譲は、今まで望美が見たこともないほど幸せそうに笑っていたのだ。

 驚いて目をみはる望美に気づいたのか、譲は今度は少しきまり悪そうな顔をした。

「……今日はバレンタインデーでしょう? 登校日でもないのに先輩が一緒に学校へ行こうっていうから、俺、ちょっとだけ期待してたんです」

 そう言うと譲は微かに目尻を紅く染め、視線を落とす。

「でも先輩はいつもと変わらなかった。そしたら今度は、なんだか少し不安になってしまって……すみません、俺、いつのまにかずいぶんあなたに甘えていたみたいです」

 俯いたまま小さく告げられた次の言葉に、望美の心臓は今度こそ大きく跳ね上がった。

「先輩がいてくれれば、それだけでいいはずなのに」

 にこ。
 少し困ったような、なのにとても嬉しそうな笑顔に、望美の思考は真っ白に弾け飛ぶ。

「う、わ……っ!」

 気がつけば、望美は一直線に譲の胸の中に飛び込んでいた。
 譲の慌てたような声が、頭上から落ちてくる。

「せっ、せんぱ……っ」

 それにも構わず、望美は譲の胸に顔をうずめる。
 ほんのり、汗の匂いがした。

「──ずるいよ」
「え……?」
 
 そう、ずるい。
 だって──

「今日はバレンタインだよ。女の子から告白する日だよ。なのに」

 そんな笑顔で、そんなこと言われたら。
 胸がいっぱいになって、言葉なんて、出てこなくなる。
 こんなに、こんなに大好きなのに。
 もうこれ以上好きになれないくらい、好きなのに。

 そう告げる代わりに、思いきりぎゅっと譲を抱きしめる。
 身体中から溢れ出しそうな「好き」が、少しでも伝わればいい。

 優しく溶ける、甘いチョコレートなんて、本当は必要なかった。
 今日は、バレンタインデー。

 大切な人に想いを伝える、特別な日なのだから。








 

 
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